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川内イオと稀人ハンターズ

日本の市町村1741をすべて巡った写真家・仁科勝介がまちを撮り続ける理由

author: 稀人ハンタースクールdate: 2023/07/14

“稀人ハンター”として、「世界を明るく照らす稀な人」を取材する川内イオさん。そんな彼が、誰もが個性きらめく稀人になれる社会を実現するため、2023年3月に「稀人ハンタースクール」を開校した。本連載では「川内イオと稀人ハンターズ」と題し、スクールの一期生=稀人ハンターズが、日本全国にいるユース世代の稀人たちの生き方を伝えていく。

稀人No.001
仁科勝介

写真家。1996年、岡山県倉敷市生まれ。広島大学経済学部経済学科卒。大学在学中に日本の全1741の市町村を巡る旅に出た。『ふるさとの手帖』(KADOKAWA)、『環遊日本摩托車日記(翻訳|邱香凝氏)』(日出出版)をはじめ、2022年には『どこで暮らしても』(自費出版)を刊行。

大人がカメラを構える姿に憧れて

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写真家・仁科勝介さんが2022年に自費出版した写真集『どこで暮らしても』を手にとった。手触りの良いつるりとした質感の1ページ目をめくると、目に飛び込んできたのは、さほど大きくない、まちの公園の風景だった。木々の緑にアスレチックの褪せた赤色が懐かしい。

鉄棒には、サラリーマン風の男性がぶら下がっている。子どもに教えるために練習している? お昼休憩? 外回りの途中? 1枚の写真から、いろんなストーリーが浮かんでくる。「偶然撮れた写真なんですけど、そのまちで生活している人の人間らしさを感じられたというか……とても好きな写真なんです」仁科さんは、静かにそう話す。

1999年から約10年続いた、平成の大合併。仁科さんは現在、合併された旧市町村をスーパーカブで回りながら、まちの写真を撮る旅をしている。訪れる予定の旧市町村の数は2000以上。2018年には、日本にある1741の市町村を2年かけてスーパーカブで巡った。自身のWEBサイトで旅路の写真や文章を発信すると、個人サイトでは異例の1日100万PVを記録。その旅路は、写真集『ふるさとの手帖』(KADOKAWA)として出版された。

また2021年には、東京23区490駅を歩いて回りながらまちを撮影した。その距離1200キロ。なぜ仁科さんは日本のまちを巡り、写真を撮り続けるのだろうか。そこには「自分が知らないことをもっと知りたい」という、純粋な好奇心があった。

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仁科さんは1996年に生まれ、岡山県倉敷市で育った。小中学生時代は、ソフトボールと軟式野球に明け暮れ「とにかく運動が好きで、いつも外で遊んでいた。じっとしていられない子どもでした」と話す。

活発だった仁科さんがカメラを手にしたのは、野球部を引退したばかりの中学3年生のときだった。

「試合の応援に来る保護者が一眼レフを持っていたり、地元のお祭りでおじさんたちがカメラを構えていたりする姿を見て、かっこいいなって羨ましかったんです」

大人が持っている大きなカメラに憧れた仁科さんは、使わずに貯めていたお年玉を持って、ひとりで近所の家電量販店にカメラを買いに行った。選んだのはその場で一番安かった、5万円の『Nikon D3100』。

散歩しながら近所の風景を撮ったり、友達を撮ったり。カメラを手に入れた彼は、細かな設定や技術などはわからないままに、シャッターを切った。

スポーツ一筋だった仁科さんだが「燃え尽きたのか、運動はまったくしなくなった」と当時を振り返り、高校では写真部に入部。飽きることなく写真を撮り続けた。

「自分は何も知らない」と感じたヒッチハイクの旅

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地元を出て広島大学に進学した彼が「まち」に興味を持つようになったきっかけは、大学1年生の夏休み。約2カ月の夏休みを前に、仁科さんは「こんなに休みが長いなら」と、九州を一周しようと思いついた。以前テレビで見て「なんて神秘的な場所なんだろう」と印象に残っていた宮崎県の高千穂に行きたい、と考えてのことだった。

「お金もないし、どうせ行くならヒッチハイクで九州を回ってみよう」。仁科さんはカメラとスケッチブックを持って旅に出た。

物静かな雰囲気をまとった彼からヒッチハイクという言葉が出たのが意外で、「知らない人に声をかけることに抵抗がないんですね」と思わず聞くと、「いや、苦手です」と恥ずかしそうに笑った。

「僕はヒッチハイクをするような、明るく元気のあるタイプではないと思います。もっとナヨナヨしていますから、若さゆえの選択というか……今はもうできないですね(笑)。車中では僕から話すというより、乗せてもらった車の方が『なんでヒッチハイクしてるの?』『どこから来たの?』と積極的に話しかけてくださって。そこからどんなお仕事をしていて、お子さんがいてなど、出会う人それぞれのストーリーを聞くことができました」

もとから旅好きだったのかと思いきや、「家族で出かけたことも、旅行した経験もありません」と振り返る。「大学に入学したばかりのころ、友人たちから旅や海外に行った話を聞いて、『みんなそんなに行動しているんだ』と衝撃を受けました」と話す彼にとって、この旅は自分の意思で外の景色を見にいく初めての体験だった。

「自分はまだ日本のことをぜんぜん知らない」。九州一周の旅でそう痛感した仁科さんは、新たな旅の計画をたて始める。

旅の初日に見舞われたトラブル

日本のまちをもっと見てみたい。そう思い立った仁科さんは、日本の市町村の数を調べた。その数1741。

「この数を回りきれるだろうか......。でも回ってみたい」

それからの2年間を準備期間と決めて、アルバイトと学業を両立しながら、旅の資金150万円を貯めた。

「日本一周の旅と捉えられることもあるんですが、僕は日本一周がしたかったわけではないんです。日本のまちを、そこで暮らす人たちの姿を見たかった。知らないことをできるだけ知っておきたかっただけなんです。有名な都市や観光名所を回るような旅にはしたくないと考えて浮かんだのが、市町村を巡ることでした」

2018年、大学4年生になる年の3月26日、仁科さんは大学を1年間休学して日本の市町村を巡る旅に出た。

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休学してまで、達成できるかどうかわからない挑戦をすることに両親は反対したが、仁科さんが折れることはなかった。時間をかけて説得し、最後には「気をつけて行ってらっしゃい」と送り出してくれたそうだ。

だが、長い準備期間を経てやっと原動機付自転車のスーパーカブで走り出したその日、出鼻をくじかれた。

白線から砂利があふれた山道でスリップし、擦りむいた右ひざからは骨が見えていた。痛みをこらえながらタオルを膝に巻き、目的地である山口県の親戚の家へとカブを走らせる。200km離れた親戚宅につき、車で病院へ連れて行ってもらうと、「全治3カ月」と診断された。それから約1週間、親戚宅で療養しながら毎日病院に通った。

実家がある倉敷に戻って通院することさらに1週間。医師から「1カ月後にまた来てください」と言われたが、仁科さんは旅を再開した。怪我をしてから17日目のことだ。

そのとき仁科さんの右膝は、まだぽっかりと穴が空いたままで、化膿している状態だった。

「早く出発して、遅れを取り戻したい気持ちが強くて。旅を再開してからは毎日、自分で傷の手当てをしていました。この旅に限らず、あらゆる選択や挑戦をするなかで、いつも安全にことが進むとは限らないと思い知りましたね」

やっと傷が閉じたのは2カ月後。高知県の室戸岬半島に到着するころだった。

旅のゴール、屋久島で見た虹色の雲

日本の市町村1741を回りきるまでに要した期間は約2年。

旅のゴール、鹿児島県の屋久島で見た景色は今でも忘れない。到着したその日の午後、自分を労うために屋久島まで来てくれた友人とふたりで、海の近くを歩いているときのこと。ふと空を見上げたら「彩雲」と呼ばれる虹色の雲が、太陽を挟むように浮かんでいた。その景色を見た瞬間、鳥肌が立ち、実感した。

「旅って、こういうことなのか」

旅をしながら撮影した写真と文章を自身のWEBサイトに載せて、日々更新していた仁科さん。旅の道中はそれほど注目されなかったが、ゴールした日には1日で100万PVを超えるアクセスがあった。

「SNSだと、どんどん情報が流れていってしまうから、わかりやすい形にしたくて自分のWEBサイトを作りました。日本中の市町村の写真を一箇所に集約した、逆引き事典のようなブログになったので、最終日には多くの方が見にきてくれたようです。予想していなかった反響に驚きましたが、『自分のまちに来てくれてありがとう』という声がたくさん届いてうれしかったです」

旅を終えしばらくすると、仁科さんのもとに朗報が届いた。旅の写真と文章をまとめた書籍を出版しないかという打診だった。

大学を卒業し、地元の写真館に勤めていた仁科さんは、仕事と並行して2020年8月に自身初の著書『ふるさとの手帖』を出版。これをきっかけに東京で個展の開催も決まった。

“心残りの1パーセント”を求めて

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2020年、東京での個展開催に際し、写真館を辞めて上京。それからは「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載を持ったり写真展を開催したりと、着々と写真家としてのキャリアを築いていった。

だが2023年、仁科さんは都内の拠点を引き払うことを決めた。4月から新たに、旧市町村と政令指定都市の区、合わせて2266のまちをカブで巡るためだ。旅の終了予定は2年後。

5年前に日本中のまちを巡ったばかりの仁科さん。なぜこれまでのように仕事を引き受けられなくなるリスクを負ってまで、もう一度旅に出ようと考えたのだろうか。

「5年前、1741の市町村を巡る旅を達成できたことは、すごくうれしいことでした。99パーセントは満足しています。だけど日本の土地全体で見ると、少しだけ何かが足りないような気がしていて。心残りの1パーセントがなんなのか、けりをつけに行きたい。自分を納得させるための旅なんです」

日々のスケジュールを尋ねると、想像以上にストイックだった。朝4~5時に起床し、9時間ほどカブを走らせて複数のまちを回る。地域住民に声をかけ、世間話をして、撮影させてもらうこともある。1日の走行距離は100~200キロ。知人の家に滞在させてもらうこともあるが、普段はネットカフェやゲストハウス、民宿で寝泊まりしている。

宿に戻った後は、撮影した写真を編集し、文章とともに自身のサイトにアップする。この作業に4時間前後はかかるという。並行して、撮影や執筆の仕事もこなさなくてはならず、「気づけば自由になる時間はあまりないですね」と話す。

前回の旅同様、荷物は必要最小限。カブの荷台に箱を載せ、その脇にカバンを引っ掛けている。中には数日分の衣服と、カメラ、パソコン、数冊の本だけ。「僕のことを見かけても、旅しているなんて思わないと思います」と、仁科さんは笑顔を見せた。

「旧市町村」という単位だからこそ出会えた景色

旅は始まったばかりだが、印象に残っているまちを聞くと、群馬県の北西部にある旧六合村(くにむら)のことを話してくれた。

「『旧市町村』という単位だからこそ見られる景色でした。旧六合村には赤岩集落という養蚕(ようさん)を生業にしていた集落があります。今はもう、養蚕業はやっていないのですが、建物やまちの景観はそのまま残っているんです。歩いていると時の流れを感じられましたし、『やっぱり自分はまだ何も知らないな』と思いました。こういった景色と出会わないまま死んでいくとしてもおかしくはないけれど、僕は知りたい。『ここに暮らしてきた人が、たしかにいるんだ』と想像するたびに、日本の広さ、深さを感じて『もっと知りたい』という気持ちが膨らみます」

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最後に今後のことを聞くと、彼はゆっくりと、言葉を選びながらこう話した。

「もっと写真がうまくなりたいです。そのために何ができるのか常々考えていて、今できるのは、旅をしながら写真を撮り続けること。自分の写真を見つめ直すこの日々が、これからも続いていくのだと思います。僕の写真を見てくれる人たちには、普段通り過ぎてしまっている景色を立ち止まって見るように、何かを感じてもらえたらうれしいです」

心残りの1パーセントに辿り着いたとき、仁科さんは何を思うのだろうか。そのときまた、彼の話を聞いてみたいと思った。

執筆
白石果林

1989年生まれ、さいたま市在住。大学職員やIT企業勤務を経て、2020年よりフリーライターに。現在はビジネス、福祉、教育、地域創生、旅の分野で幅広く活動中。ライフストーリーを聞くことができるインタビューが好き。趣味はアクセサリー作りとバッティングセンターに通うこと。夫と猫と3人暮らし。

編集、稀人ハンタースクール主催
川内イオ

1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、イベントなどを行う。
Instagram: @io.kawauchi
Twitter: @iokawauchi

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ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンター、川内イオが主催するスクール。2023年3月に開校。世界に散らばる27人の一期生とともに、全国に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。
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