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川内イオと稀人ハンターズ

朝市名物だった自転車屋台のコーヒー店。「SPAiCE COFFEE HOUSE」が勝浦の文化を紡ぐ

author: 稀人ハンタースクールdate: 2024/10/12

2両編成のJR外房線に乗り込み、田んぼの中を走ること約30分。今回の目的地である勝浦駅に着いた。ほんのりと磯の香りがする商店街を10分ほど進むと、瓦屋根の古民家が現れる。2022年にオープンしたテイクアウトのコーヒー専門店「SPAiCE COFFEE HOUSE(スパイスコーヒーハウス)」だ。店の原点は、勝浦の朝市に出店していた自転車屋台のコーヒー店。現在は勝浦の文化を紡ぐ店として、地元の人や移住者、観光客たちの憩いの場となっている。

稀人No.010
SPAiCE COFFEE HOUSE・紺野雄平

1992年福島県福島市生まれ。国際武道大学卒業後、移動式自転車屋台のコーヒー店を始める。勝浦の朝市に出店し、赤いパラソルの下でコーヒーを淹れる独自のスタイルが名物となった。2022年にはコーヒーを通じて出会った仲間4人とともに起業し、「SPAiCE COFFEE HOUSE」をオープン。現在も朝市をはじめ、各種イベントに出店を続けている。 

Instagram :@spaice_coffee_house

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自然と人が集う、のどかな街のコーヒー店

「あ、コーヒーだ」。店を目指して歩いていると、コーヒーの香りが漂い始めた。その香りの先に、コーヒー専門店「SPAiCE COFFEE HOUSE」がある。目印は、店頭で風になびく藍色の暖簾。ガラス扉を取り外した開放的な入り口にたどり着くと、ちょうどひとりのお客さんが注文しているところだった。

スタッフはきびきびと体を動かし、アイスコーヒーを用意している。笑顔で「お待たせしました」と言いながら、できあがったアイスコーヒーをカウンターの上に置く。お客さんは「ありがとう」という言葉を残し、店を立ち去った。そのすぐあとには、ハンカチを片手にお年寄りが入ってきた。「いやぁ。暑いね~」とスタッフに話しかけていたので、きっと地元の常連さんなのだろう。

店内は漆喰調の壁やコンクリート打ちっぱなしの土間が広がり、明るいながらも落ち着いた印象だ。カウンターの反対側のスペースには竹のベンチや木の椅子が置かれており、そこに座ってアイスカフェラテを飲んでみた。ストローで吸い上げた瞬間、口の中でエスプレッソの苦味とミルクの甘みが溶け合う。その心地よさに、ごくごくと飲み干してしまった。

勝浦の歴史を感じさせる日本家屋と、現代的で洒落た店内。そして、おいしいコーヒー。ひっきりなしに人が訪れるこの店は、5人の若者によって経営されている。この店の原点は、共同経営者の1人である紺野雄平さんが始めた、自転車屋台のコーヒー店だという。一体どのような経緯を経て、今の形になったのだろうか。

2度の挫折を乗り越えたサッカー少年

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紺野さんは1992年、福島県福島市に生まれた。小学2年生の時、足の速い同級生に憧れサッカーを始めた。それから熱心に練習を重ねて高校サッカーの強豪校に入学したものの、「ずっとベンチ外だった」と話す。練習量は誰にも負けない自信があった。それでも最後まで結果が出なかったという。

プロサッカー選手になるという小さい頃からの夢を諦めた。しかしこの時に味わった挫折感が、次の目標に向かう原動力となった。それはスポーツトレーナーになることだ。

「サッカーでは、がむしゃらに努力をしても結果が出ませんでした。今度はサポートする側に回り、目標に向かって頑張っている子たちが報われるよう手助けしたいと思ったんです」

志望校は、体育専門学群がある筑波大学。ところが、紺野さんはセンター試験で大失敗してしまう。もう行くところがないと落胆している時、母親が見つけてきたのが国際武道大学だった。

「サッカーと大学受験、立て続けに挫折して完全に心が擦り切れていましたね。必死に頑張ったのにまたダメなのかって。でもスポーツトレーナーを目指していたので、気持ちを切り替えて国際武道大学に入学しました」

進学が決まってホッとした矢先の2011年3月、東日本大震災が発生した。

東日本大震で覚えた「生かされている」感覚

「震災の翌日には、僕が通っていた高校の体育館が避難所になりました。幸い僕の家族や親戚、実家に被害はなかったので、母校にボランティアに行きました。僕にもなにかできることがあると思って。実際にその場へ行ってみると、友人が行方不明の人、家族が津波に飲み込まれた人などがたくさんいたんです。そういった人たちを目の前にして、なんて声をかければいいかわからなくて……。ただただショックでしたね」

自分にはどうすることもできない……。その無力感に打ちのめされた。

「亡くなった人たちの中には、僕と同い年や年下の子もたくさんいました。夢の半ばだったかもしれないし、夢を見ることすらできなかったかもしれない。今、僕が生かされているのなら『やりたいことをやらなきゃいけない』と思うようになったんです」

震災で覚えた「生かされている」という感覚は、「どう生きたいか」と自らに問うきっかけとなった。その問いかけは、以降も続くことになる。

震災から1ヵ月後の4月、福島から大学のある千葉県の勝浦市に移った紺野さん。ここから、スポーツトレーナーになるための日々がスタートする。

価値観を変えた2つの出会い

大学ではトレーナーチームに入った。トレーナーに必要な知識の習得やマネージメント能力の養成を目指す団体で、学内の部活で負傷したスポーツ選手のサポートに直接携わることができるのが特徴だ。紺野さんが担当したのは柔道部。朝からサポートに入り、夜は勉強会に参加して、家には寝に帰るだけの毎日だった。

2012年3月、大学2年生の春休みに約1ヵ月の短期留学をすることになった。校内のトレーニングルームでよく会うアメリカ人の講師から「毎年実家でホームステイを受け入れているんだ。よかったら参加しない?」と声をかけられたのがきっかけだ。向かったのは、アメリカのアリゾナ州。ここで紺野さんの価値観を変える出会いがあったという。

「ホームステイ先のお母さんが、仕事をしながら大学に通っていたんです。僕もお母さんと一緒に授業を受けたのですが、教室にはいろいろな世代の学生がいることに気づきました。たくさんの社会人がいるんですよ。日本だと少し肩身の狭い感じがあるけど、それがほとんどありませんでした」

ホームステイ先には紺野さんと同年代の息子がおり、その息子から聞いた話にもカルチャーショックを受けた。

「次々と学校を移っては、その時に興味のある分野を学んでいるらしくて。今の大学で3校目だと聞いてビックリしました。でも、それもあちらでは普通なんですよね。日本とアメリカの価値観の違いに驚いたし、こんな自由な世界があるのかと目が覚める思いでした」

「見たことのない世界ってまだまだあるんだな」と改めて気づいた紺野さん。帰国後、再び「どう生きたいか」と自分に問いかけてみた。そして出た結論が、トレーナーチームをやめて時間をつくること。「もっと違う角度で世界を見てみたい」と強く思ったのだ。

2013年の春、大学3年生になる直前にトレーナーチームをやめ、自由になった時間で始めたのがボランティア活動。東北の被災地でひまわりを植えるプロジェクトに参加し、バリ島の孤児院で子どものお世話をした。

それまでやったことのない活動に積極的に取り組んでいた同年の夏頃、紺野さんは新たな出会いを得る。勝浦の部原という地域をバイクで移動中、キッチンカーのハンバーガー屋を見つけたのだ。場所は太平洋が目の前に広がる海岸沿いの駐車場。車の隣にはテントと机が設置されており、海を眺めながらハンバーガーにかぶりつく人たちがいた。

キッチンカーの中では関西弁の男性店主が、鉄板でパティとバンズを焼いている。興味を引かれて注文してみると、店主から手渡されたハンバーガーのボリュームに驚いた。「今でこそよく見かけるけど、当時はチェーン店のものとは違う分厚い見た目が衝撃的で。塩加減も絶妙だし使っている野菜もフレッシュ。初めて体験する贅沢な味だった」と振り返る。

ハンバーガーの価格は1000円ほど。学生の紺野さんにとって気軽に出せる金額ではなかったが、この店に何度も通うようになった。海を目の前にした開放的なロケーションと、店主の明るく気取らない人柄が生み出す場の空気感にハマったのが理由だ。

「店には常連さんだけでなく、旅行者や噂を聞いて駆けつけた人たちが集っていました。誰でもフラットに話ができる雰囲気だったので、初対面でも自然と友達になっちゃうんですよね。その時限りではなく、人と人がつながっていく様子が面白いと思いました。店主さんは、積極的に話しかけたり、お客さん同士の話をつないだりしていたわけではなくて。経験を積んだ今ならわかるのですが、お客さんに話しかけるタイミングと、話しかけないほうがいいタイミングを無意識に見極めていたんだと思います。それが心地よくて、会話が生まれやすい雰囲気につながっていたのかなと。ただおいしいハンバーガーを一生懸命つくっていただけかもしれないですけどね(笑)」

人が集まる場をつくりたい

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ボランティアに参加したり、旅に出たり、キッチンカーのハンバーガー屋に通ったりして過ごした2013年。12月からは就職活動を始めて1社から内定をもらったが、2014年の夏、大学4年生の時に辞退する。就職活動のあり方に疑問を抱くようになっていたからだ。

「みんな同じような髪色や髪型にして、同じようなスーツを着ますよね。面接の受け答えも事前に練習する。それでひとりの人間のなにがわかるんだろうと疑問に思ったんです。『安定するために就職する』という考え方にも違和感があって。今の時代、自分で生きていく力を身につけたほうが一番安定するんじゃないかと考えていました」

母親に内定辞退の報告をすると「もう勝手にして」と呆れられたそうだ。

「さぁ、これからなにをしようか」

今後の身の振り方を考えるうち、紺野さんの頭に思い浮かんだのは「人が集まる場をつくりたい」。その思いは以前から紺野さんの中にあった。実は大学3年生の時、学生起業に憧れて友達とカフェをつくろうとしたことがあるのだ。あくまで「起業しようぜ! というノリだった」そうだが、なぜ起業するのにカフェを選んだのだろうか。

「当時は学生の溜まり場がなかったので、あのハンバーガー屋さんのような人と人がつながれる場があればいいなと思っていました。自分で場づくりをしようといろいろ考えてみたけど、カフェしか思いつかなかったんですよね」

最終的に学生起業の話は形にならないまま終わる。それでも卒業後、もう一度カフェの開業に向けて動き出したのは「人が集まる場をつくるならやっぱりカフェだ」と考えていたからだ。とはいえ、肝心の開店資金がなかなか貯まらない。どうしようかと悩むうち、ふと「『人が集まる場をつくる』のが目的なら、それは固定の店舗でなくてもいい」と考え方を変える。

初めはキッチンカーも候補にあがったが、最終的にはもっと小さい規模で気軽に始められる自転車で場づくりをすることにした。商品はコーヒーのみ。2015年の春、自転車屋台のコーヒー店が誕生しようとしていた。

自転車屋台のコーヒー店「SPAiCE COFFEE」誕生

自転車屋台の名前は「SPAiCE COFFEE」に決めた。本来であればスパイスは「SPICE」と表記するが、間に「A」が入っている。これは「SPICE(スパイス)」と「SPACE(場)」を組み合わせた造語なのだという。

「初めから『スパイス(刺激)』をキーワードにしようと考えていました。それで決めたコンセプトが『日常にほんの少しの“スパイス”を』です。『誰かにとっての“スパイス(SPICE)”になりたい』『みんなの“居場所(SPACE)”にしたい』という願いを込めて、『SPAiCE COFFEE』にしました」

カフェを始めるために貯めたお金は100万円。それを使い、自転車にリアカー、ドリッパー、サーバー、ケトル、カップなど、自転車屋台でコーヒーを販売するのに必要な道具を買いそろえた。準備を進めるなかで「一番大変だったのが保健所の審査だった」と振り返る。

「当時、保健所には自転車屋台の営業を許可するための明確な基準がなかったみたいで。知り合いの紹介で自転車屋台を出店していたのがちょうど保健所の近くだったので、職員の方が来るたびに『屋根になるものを設置して』『屋台を布で覆って』などと指摘を受けていました」

自分は自転車屋台でコーヒーを売るしか生きていく方法がない。紺野さんは職員に「どうすればいいですか」と何度も質問し、改良を重ねた。試行錯誤の末、規格を満たした自転車屋台が完成。保健所から営業許可が降り、晴れて本格的な活動がスタートした。

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しかし、ここでひとつ疑問が残る。なぜ大学を卒業したあと地元の福島に帰らず、勝浦に残って仕事を始めようと思ったのか。

「なにもないところから始められたらいいなと思って。福島には友達がいるけど、勝浦では地元の人との関わりはほとんどありませんでした。商売を始めるなら、東京のような人の多い場所がいいと考えるのが普通ですよね。でも人が多い場所で売れることに興味がなかったし、むしろ人がいないところで人が集まる場をつくるほうが面白そうだなと。勝浦は人口が減り続けているので、僕にとってはちょうどいい場所でした。普通や常識を壊したかったんです」

「もう無理だ」と絶望した、どん底時代

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2015年4月にスタートした自転車屋台だが、その後の活動は決して順風満帆とはいえなかった。

就職した大学の同級生と比べて、自分には自由な時間がある。その優越感に浸って、自分の好きな時に働けばいいやと週に1、2回しか出店しなかった。お客さんがゼロ人の時もあり、収入はほとんどない。最初のうちは貯金を切り崩して生活していたが、間もなくそれでは賄えなくなった。

貯金が底をつき、アパートの家賃や水道光熱費、カードの利用料が支払えなくなった。そのうちに、まず電気が止まった。次にガス、最後に水道。これはマズイと焦り、自転車屋台で稼いだわずかばかりの稼ぎで、止まった順に1ヵ月分だけを支払うことにした。それからは止まったら支払う、の繰り返しだった。カードはブラックリスト入りする直前まで滞納。アパートの家賃は、仲のいい大家さんの厚意に甘えて見逃してもらった。

まさに自転車操業の日々。しかし、どんなに生活が苦しくてもバイトをしようとは考えられなかった。自転車屋台を始めた頃に抱いていた優越感とプライドが邪魔をしたからだ。「バイトするなんてダサい」と強がっていたものの、少しずつ精神的に追い詰められていく。すべては自分でまいた種。紺野さんは誰にも助けを求められず苦悩していたが、半年後、ついに心が限界を迎える。

「お願いだから誰か気づいて。この状況から助け出して」

心の内で悲鳴をあげながら実家に帰った。生活できなくなった原因は、自分の怠惰・怠慢にある。それはわかっていたが「しょうもないプライドのせいでバイトすらできなかった」と紺野さん。お金がない苦しさよりも、自分の中にある矛盾や葛藤から逃れたい一心で「もう死んでしまいたい」と何度も考えた紺野さんを思いとどまらせたのが、当時付き合っていた彼女の存在だ。「死に場所を求めてフラフラとさまよっていた時に、彼女の顔がチラついた」と苦しげな表情で振り返る。そこでようやく母親に現状を告白し、滞納していた支払い分を援助してもらった。2015年、冬のことだった。

「ちゃんと生きよう」

そう思った紺野さんは勝浦に戻り、生活するためにバイトを始めた。そのうえで、どうやったらコーヒーだけで食べていけるのかを必死で考えた。昼間は自転車屋台でコーヒーを販売し、夜は飲食店でバイトをする日々。出店中はお客さんの反応を見ながら、接客の仕方を少しずつ見直した。

たとえば、お客さんにコーヒーを渡す時はカップのどこを持つといいのか、お釣りを渡す時は片手と両手のどちらがいいのかといった細かな点から改善していった。同時に、コーヒーの淹れ方や豆のブレンドなど、おいしい一杯を出すための研究も重ねたという。これらはすべて「できる範囲の中で最大限に喜んでもらいたい」と考えての行動だった。がむしゃらに頑張っていると次第にお客さんが増え、翌年には「気づいたらコーヒーだけで生活できるようになっていた」と話す。

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多くの人が訪れる勝浦の朝市も、定番の仕事場となった。販売していたのは、勝浦の朝市をイメージしたオリジナルブレンド。その日の朝の気温や雰囲気からインスピレーションを得て、豆の挽き具合や抽出量などを変えてブレンドする。毎日のように朝市に立ち続けるうち、紺野さんの淹れるコーヒーを求めて朝市に来る人が少しずつ増えてきた。なかにはコーヒーを買っていくだけでなく、その場にとどまってお喋りをする人たちもいる。自転車屋台を中心に新しいコミュニティが生まれつつあった。

仲間4人と一緒に始めた店づくり

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2022年の夏、紺野さんは「店をつくろう」と思い始める。当初、場づくりに固定の店舗は必要ないと考えていたはず。なぜ実店舗を構えようと思ったのかと聞くと、こんな答えが返ってきた。

「自転車屋台を7年続けるうちに、文化らしきものができあがっているのを感じていました。お客さんの中に、自転車屋台を1日の生活リズムに組み込んでいる人が一定数出てきたんです。この辺りは漁業の町なので漁師さんが多い。漁港から家に戻る途中で自転車屋台に立ち寄ったり、しけで漁に出られない時にもコーヒーを飲みに来たりする人がいて、勝浦で暮らす人の生活の一部になれたのかなと。でも僕が自転車屋台をやめてしまえば、なにも残らない。だから形として残せる場所をつくろうと考えました」

そのタイミングで、店づくりに賛同してくれる仲間が4人現れた。いずれもコーヒーを通じて知り合ったキッチンカーのコーヒーショップ経営者、キャンプ場運営会社に勤務していた友人、朝市で自転車屋台を手伝ってくれた友人、大学卒業後に勝浦に戻ってきた友人だ。

10月になって、紺野さんたちは本格的に動き出す。そこからは早かった。紺野さんは、以前から素敵だなと思っていた建物が空いていることを思い出した。元せんべい屋だったという古民家だ。大家さんに交渉して店舗を借り、自分たちの手で改装工事をおこなった。

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図面に仕上がりのイメージを書き起こし、壁を漆喰塗料で塗って、木のカウンターを造作した。解体して使えるものはなるべくそのまま使ったため、150万という低予算で済んだ。工事時間は1ヵ月ほど。「11月14日に片付け始めて12月29日にオープンにこぎつけた」というのだから、驚きの速さといえる。

店頭には、元せんべい屋「治郎兵ヱ」の経営者から引き継いだ暖簾をかけた。店名も「SPAiCE COFFEE HOUSE」と名前を変え、2022年の暮れに共同経営する仲間4人と新たなスタートを切った。

「SPAiCE COFFEE HOUSE」は文化を紡ぐ場

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現在、店では自家焙煎のレギュラーコーヒーやエスプレッソ、カフェラテなどをテイクアウト主体で販売している。店内に竹のベンチや木の椅子を置き、購入したコーヒーをその場で楽しんだり、談笑したりできるスペースも設けた。店に行けばカップルや家族連れ、旅行者など、いつでも誰かがいる。

自転車屋台のコーヒー店「SPAiCE COFFEE」は、紺野さんの「人が集まる場をつくりたい」という思いから始まった。それから9年。「今の店『SPAiCE COFFEE HOUSE』は思い描いていた理想の姿に近づいていますか」と聞くと、紺野さんは「うーん。難しいな」と答える。自転車で移動しながらコーヒーを販売していた頃は「コーヒーはひとつのツール」だと考えていたという。人と人がつながる刺激的な場をつくるためのツールが、コーヒーだった。しかし「『SPAiCE COFFEE HOUSE』にはちょっと違う思いがある」と語る。

「この店のテーマは『文化を紡ぐ』です。名前にHOUSEとつけたのは、あくまで主役は建物だから。この建物はせんべい屋の経営者から引き継いでいるし、それを次の人たちに受け渡すのが僕たちの役割なのかなと思っています」

そう語ったあと「ちょっと話が飛躍するかもしれないですけど」と言い、次のように続けた。

「たとえば実家って、家族のひとりが出ていったとしても実家なのは変わらないし、今まで住んでいた家から引っ越しても、親のいる家が実家になりますよね。この店は5人で始めたけど、いずれ誰かが出ていくかもしれないし、今通ってくれているお客さんも別の地域で生活を始めるかもしれない。だからここは、コーヒーを通じて知り合った人たちの歴史が残る家のような場にしたいと思って。そういう意味では、まだまだ理想の形にはなってないですね。一生完成するものではないのかもしれません」

朝市への出店は、「SPAiCE COFFEE HOUSE」をオープンしてからもずっと続けているそうだ。紺野さんが店内で接客することは少なく「朝市担当になっています」と笑顔で話す。紺野さんはこれからも、コーヒー1杯1杯に心を込めて、場づくりの原点となった朝市に立ち続ける。

執筆
山本ヨウコ

1978年生まれ、千葉県在住のライター。働き方や生き方、キャリアに関するインタビュー記事を中心に、Webや雑誌、企業のオンドメディアなどで幅広く執筆中。書籍の執筆協力をおこなうことも。ヒト・モノ・コトの魅力や可能性を引き出し、だれかの背中をそっと押すような記事を届けたい。趣味は人間観察とバレーボール、推し活。X:@yokoyamamoto_wt

編集、稀人ハンタースクール主催
川内イオ

1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、イベントなどを行う。

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稀人ハンタースクール

ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンター、川内イオが主催するスクール。2023年3月に開校。世界に散らばる27人の一期生とともに、全国に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。
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