友人が弱音を吐いたとき、それに共感するのは容易く、つい「そうだよね」と言ってしまう。本当にその共感は、友人を救うのだろうか? 歌人の青松輝さんは、鋭い瞳で、それを問う。歌人でありながら、YouTuber「ベテランち/雷獣」としての顔を持つ青松さん。彼の短歌は、私たちに寄り添いすぎず、遠すぎず、凛とさせてくれる何かがある。今回、3つの短歌とともに、青松さんの思考や短歌との向き合い方を訊ねてみた。
青松輝
1998年生まれ。東京大学Q短歌会に2018年から2022年まで所属。歌集『4』(2023、ナナロク社)。「ベテランち」「雷獣」の名義で YouTube でも活動。
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神保町で偶然、短歌と出会って
19歳のころ、当時の恋人と神保町に行って、穂村弘さんの歌集『ドライ ドライ アイス』を手に取りました。たまたまサイン入りだったので買ってみたら、想像よりも面白かったんです。そこから穂村さんの本をはじめ、さまざまな歌集を読むようになって。
東京大学に入ってから、創作系のサークルにいくつか足を運びましたが、雰囲気に馴染めず、何もしていませんでした。結局クイズ研究会に所属していたのですが、そこの友人が東大の「Q短歌会」という短歌サークルに誘ってくれて。それが2018年頃で、今もその友人たちと「第三滑走路」という短歌のユニットとしてネットプリントなどを中心に活動しています。
サークルに入るまでは、見よう見まねでiPhoneに短歌のメモ書きを残していました。入会してからは「よし、やるか」と真面目に書くようになって。歌会はストイックで、ひたすら短歌だけに集中します。一人一首を持ち寄って、2時間ほど議論して……。歌会の後はみんなでごはんを食べて解散して、という流れで、中途半端な馴れ合いがないのが良いです。初めての歌集『4』は、ナナロク社の村井さんが僕の短歌を気に入ってくれて、出版することができました。
YouTuberのベテランち/雷獣と、歌人の青松輝で、僕という人間の二面性を使い分けている感覚です。YouTuberは友人といるときのアバター、歌人は一人のときや恋人といるときのアバター。基本的にはどちらも本当の自分だと思っていて、ざっくりと、明るい部分と暗い部分に分けて、それらを濃縮してお届けする、というイメージです。
青松輝が考える短歌の面白さ
短歌という形式は、再現性が高いところが面白いですね。三十一音しかないので、誰かの短歌をパーツに分解して構造を切り取ることができる。そこから、良い短歌の条件を算出しやすくなっていると思っています。難しいと思う部分はもちろんありますが、一個一個の要素を細かく分解していけば、誰にでも作れるのが短歌です。
僕の短歌には、プラスの感情よりもマイナスな感情を書いていることの方が多いです。僕自身がそういう性質を持っている、というのはもちろんありますが、短歌という形式自体が、孤独や悲しみなどマイナスな感情を乗せやすいのかなと。
でも、短歌を自分の感情のために書くのはどこか気持ちが悪くて。もちろん自分の気持ちに折り合いや整理をつけるために書いている面もありますが、それだけでは書かないように心がけています。あくまでも読者のために書きたいし、書かなければいけない。
孤独や切なさ、自分の体験を信用しない
僕は人間の抱えている感情をあまり信用していません。もちろん、孤独とかエモさは好きですし大事にしていますが、それが面白い短歌になるときに、感情としての切実さは、あくまで作品の強度のために奉仕するべきというか……。
いちばん偉いのは作品そのものであって、自分の感情はあとからついてくるものです。人間が抱えられる感情なんて、みんなだいたい同じで、たかが知れているはずです。人間なので、自分の感情を大事にしたくなるんですけど。なるべく信用しないようにしています。
逆に、なにか短歌を書く上で信用しているものがあるとすれば、それは技術、ということになります。もちろん短歌を書く技術もそうですし、もっと手前のレベルでもそうです。たとえば孤独を短歌にしたいのであれば、僕たちには孤独でいるための技術が要る。何も考えずにSNSだけを見て生きていたら、きちんと孤独でいることすら、今の僕らには難しいんじゃないか、と思っています。
短歌を書くときに、実際に起きたことがきっかけになることはありますが、出来事をそのまま書くことはあまりなくて。孤独や切なさだけではなく、自分の実体験もあまり信用していないですね。
そう思うと、けっこうメカニカルに短歌を考えて書いていますね。たぶん、自分の感情を書くのが恥ずかしいんでしょうね。「才能だけで書きました!」というような短歌は、僕には恐ろしくて書けなくて。人に説明するときによく言うのは、車を作っているイメージだということ。最終的には感情を乗せるとしても、本体の性能をよく確かめてから乗せなければいけない。
「夕映えは学校が好きじゃないきみの孤立のオフィシャル·ヴィジュアライザー」
ここ5年くらいで、ミュージックビデオのことを「オフィシャル・ヴィジュアライザー」と呼ぶことが増えてきたらしくて。まず海外で使われるようになって、日本にもだんだん浸透してきた。音楽をヴィジュアライズしたものが映像、というのは、当たり前といえば当たり前ですが、面白い言い方だなと思いました。
この短歌は「オフィシャル・ヴィジュアライザー」という単語を入れようと最初に決めて、そこから言葉のパーツを集めていった形です。
僕の短歌の読者は、あんまり学校は好きじゃないんじゃないかな、と思って。僕もそうですけど、学校が好きだったら短歌なんて書く必要がないですよね。友達と話していれば満たされるんだから。
「川の向こうにAmazonの倉庫がみえて無責任なのかな この炎」
実際に川沿いにAmazonの倉庫が見えたときにメモを取っていました。「この炎」というワードは、「This Heat」というバンドが好きで、そのバンド名をイメージして書いたフレーズです。「This」「この」ってかっこいいなと思ったんです。無責任なのかな、の部分は、最後に感情をあらわす言葉を思いついて書いた感じですね。
基本的に、まずゴールになる感情があって、そこに向かって短歌を作るのではなくて、たくさんの言葉のパーツが僕のメモとか頭の中にあって、それを組み合わせていって短歌を作ります。もともと知っていたはずの感情が、パーツの組み合わせによって再現されて、自分の短歌を読んで、その感情を思い出すような感覚です。完成したときにようやく、この短歌はこの感情を書いていたんだ、と理解することが多いですね。
「iPhone割れて きみがなにを読みたがっても僕は悲歌しかつくりたくない!」
これは今回のテーマとしていただいた「泣き言」を意識して選んだ短歌です。「!」は最後に、付けた方が可愛いなと思って付け足しました。僕はもともと自分の感情を表に出すことが得意ではなくて、短歌なら普段より感情を出せるような気がしています。
本当の意味で誰かの役に立ちたい
ふだんは、僕より辛そうな人や悲しそうな人が周りにいることが多くて、自分が弱音を吐くよりも、誰かの悲しみを受け取ったり、聞いたりする方が多いですね。今までずっと、マイナスの場所にいる誰かに僕が寄り添うことに、本当に意味があるのか、役に立っているのか、と考えてきました。
他人の孤独や痛みに対する共感性は、普段はなるべくオフにしています。誰かに共感して一緒に傷つくのは、ある意味で気持ちがいい行為だと思うんです。でもそれは単に傷ついている人が増えるだけで、意味がない。僕は、嘘の被害者になるくらいなら、加害者になった方がまだましだと思っています。
SNSのタイムラインを見ていると、すこし油断したら誰かに共感して、傷ついたり怒ったりしそうになりますよね。でもそれにはまったく意味がない。それはSNSを運営している企業が、お金儲けのために僕たちに与えてくれている、嘘の共感や怒りや悲しみです。僕はもっと徹底的な孤独が欲しい。
それでも、こうやって短歌を書いているのは、他者に対して何かをしたい、ということなんだと思います。
僕はいつも、他人の痛みを自分の痛みにはできない、ということを考えています。それは、他人の死を自分の死にはできないという、明らかな事実からきています。
だからこそ、生きて、僕の書いたものを読んでもらえたら、そのときだけは、誰かの生が、僕の生と重なるかもしれない。僕と誰かがふたりで存在する空間が、ふたりにとってプラスの空間になれば、ということだけを、ずっと考えています。