和歌山にきて知り合った先輩移住者に誘ってもらい、田んぼにかかわる暮らしが始まった。楽しんで田んぼをやっている、力の抜けた二人に魅せられて、ごまめのような戦力で仲間に入れてもらい、お米の育つ様子を眺めて気がついた。野良仕事は肉体疲労に反比例してノーストレスで、むしろ無心に没頭していることが多い。作業の終わりにはヘトヘトなのに、やたらと充実した疲労感が多幸感になる不思議。田んぼから始まる、おいちゃんたちとの繋がりもありがたく、田んぼでは、都会暮らしで抜け落ちてたものを思い出すきっかけが多い。そんな「どろんこ田んぼエモーション」はじまりまーす!
田んぼといったら、田植えでしょ!
ぬぽん!ずぽっ!ぼふっ!
「わぁー!なんかすごーい!」
チョコレートクリームのような田んぼに、ズボンをたくし上げて、スネまで入ったみんなの顔はうれしそう。去年の今ごろ、初めての田植えで畦から泥の中に足を入れた時「ぬぉぉぉ!」って、叫び声でもため息でもない声が出た。熱い風呂に入る時にでる「おおおっー」って声に近いけど全然違う。
「ぬぉぉぉ!」
味わったことない感触に触れた時、人は出したことのない声が出てしまうことを知った。
体験したことのない感覚や触感を味わいたかったら、田んぼに行って裸足で入るだけで、これ以上のわかりやすい体感は他にないだろう。初めての感覚に近いのに、忘れていた感覚を思い出すような、懐かしい気がするのも不思議だ。
田んぼって言葉や、田植えって言葉は誰でも知っているし、日本で暮らしていたら当たり前すぎるくらいに馴染んでいる単語だけど、実際に体験したことがある人はどのくらいいるだろう。
イメージの世界の田んぼや田植えじゃ「ぬぉぉぉ!」って声には出合えない(笑)。一歩、二歩、三歩、足が抜けなくフラフラするあの感じ、使ったことない筋肉と神経を全開で刺激されて、原始記憶でもノックされたかのような高揚感。
やばい、ただの田植えのはずなのに、その前に体が受ける刺激の情報量が多すぎて、思わず笑っちゃう。「なにこれ!笑っちゃうんだけど」と、口にしたのを覚えている。
老若男女、田んぼは年齢性別を問いません!
田植えはいたってシンプルな作業で、苗の束を片手に持って、二、三本の苗をプニュっと泥に植えては前に進む。植える場所は、田んぼに碁盤の目のように引かれた十字のところでいいから、小学生でも簡単にできる。むしろ、体が軽い分、大人よりも子どもの方が、進むスピードが圧倒的に早かったりするから面白い。
考える必要もほとんどないから、隣の列の人と他愛もない話をしながらプニュプニュ進める。苗がなくなったら、畦にいる人に声をかければ苗束を投げて渡してくれる。もちろん慣れてない人が投げるわけで、見当はずれな場所に飛んでいったり、手を伸ばせばキャッチできたりしそうなのに、足が泥にはまって尻もちをついたり、苗爆弾が近くに落下で泥チョコがバチャーン!と飛び散って、皆んな顔まで泥パック!
足の自由がきかない田んぼではそれが逆に面白かったりするのだ。転んだところで、みんなの白い歯が光るだけで、柔らかい泥の上では怪我のしようがない(笑)。平和だ。
日ごろ、服や靴なんかを汚さないように暮らしているせいか、おもいっきり泥んこになるほど、解放されてくような爽快感が気持ちいい。大人も子どもも関係なく、みんなが日常では暗黙の約束事(汚さない)から解き放たれて、吹っ切れたような無邪気さに満ちているのがわかる。
田植え機を使わずに、あえて手で植えることによって、通常の何倍も人手も時間もかかるけれど、その分省略しなかった時間の中に、お米を作ること以外の何かを、それぞれの人が感じているような気がする。少なくとも僕はとても感じている。
農TANBO、農LIFE
田んぼ田んぼといってる割に、僕は田んぼのことをほとんど知らない。だけど移住者としては先輩にもなるナイスガイなふたりに出会い、彼らが無農薬無施肥でやっている、田んぼの仲間に入れてもらえただけなのだ。
実際にやっている田んぼは、世界遺産にも登録された熊野本宮大社旧社跡の大斎原(おおゆのはら)にあり、地元の人達と一緒に水路を共有し、8枚の田んぼ(8箇所)大きさでいえば、約3反、3000㎡(1000坪)でお米を作っている。
田んぼリーダーのてっちゃん(元教師)と、ゆーちゃん(宿経営)は、地元のおいちゃんたちがやっている田んぼに混じって、従来のやり方とは違う農法で田んぼをやっている。僕が見てきた移住者で、自然農など田畑やっている人たちの多くは信念が強く、理想と思想を大事にしていて「僕には僕のやり方がある」という人がほとんどだった。
それはそれで、ブレない覚悟みたいなものがあり、素直に「すげーなー!」と思っていたが、地元の人たちとの摩擦も多く、そのスタイルには眉間に1本2本、シワが必要になる気がしていた。
彼らはそこが大きく違っていて、自分たちのやり方を進めながらも、周りの田んぼの先人達のアドバイスに耳を傾け、時には作業の手を止め相槌をうちながら、自分たちのやり方を小出しに伝えつつ、本当に絶妙な距離感で田んぼ作業をやっているのだ。
僕が仲間に入れてもらった頃には、すでにこのふたりを地域の田んぼを一緒に守る、若手として認めていることをすごく感じた。そしてなにより、いつもふたりはとても楽しそうなのだ。これは本当に大切なことだと思っているし、僕が田んぼが楽しいと思える答えはここある。
田んぼに入って、空を見ろ。
田植えが終わってしまうと、田んぼはやることがほとんどなくなる。農薬を使っていれば、雑草も生えないので水の管理以外やることがない。ただ、無農薬でお米を作っている田んぼは、苗が大きく強く育つまでひたすら草抜きの終わりなき除草の旅が始まる。僕はだいたい、仕事帰りに海パンで田んぼに行き、汗まみれになったら近くの川でバシャバシャ入ってから帰るパターンが多かった。
頭をシャンプーするように手の指を立てて、両手で泥の表面をジャブジャブとこすっていく。すると、立ち食い蕎麦の熱いつゆに浮かんでるネギのように、プカプカと雑草の芽が浮かんでくる。これを僕は“シャンプー除草”と呼んでいる。
シャンプーしていると、足元にいるカエルやイモリが、びっくりしたように逃げていくけど、進む先に逃げていくからまた泡食って逃げていく。なんか申し訳ない気持ちになり「踏んじまうぞー」と手にとって隣の田んぼに投げる。するとトンビが急降下してきて、田んぼにゆっくり足をつけそのまま去っていく。その手にはカエルがだらんとぶら下がっていて、自然なことが自然に起きただなのに、カエルが切なくこちらに手を振っているように感じる。
ディープな田んぼ時間の中では、謎の悟りモードに入ることが多い(決して悟っていない)。悟った気分ついでにいうと、シャンプー除草にショートカットやマルチタスクはあり得ない。ひたすらそれ相応の時間を費やしていくのみなのだ。
多少要領の良いやり方があっても時間は結局かかる。和歌山に引っ越してくる前、少しでも効率良く同時に沢山のことを処理することに気をとられて、常に何かに急き立てられるような焦燥感があった。しかし田んぼをやるようになってから、その焦燥感は薄らいだ気がする。
ただ、田舎では都会での忙しいとは違う、決して短縮できないやることがとても多く、ゆるりと俳句を詠んでるような暇はないのも現実である。また、シャンプーのシーズン到来だ。