2015年2月某日、友人である造形師の相蘇さんから一本の電話がかかってきた。
「クリオネ大量に捕ってしらす丼みたいにして食べたい」
彼はよく、こうした脈絡もないことを突然言い出す。頭の中身がぬくくなる季節にはまだ早いよ、とたしなめようとしたが、聞けばどうやら本気であるらしい。すでに道北の漁協や漁師さんに一通り電話し、何軒も断られたり鼻で笑われたりしながら、ようやく羅臼の一人の漁師さんに協力を取り付け、漁船をチャーターすることに成功したというのだ。
さらに、流氷の下に潜ってペットボトルで海水を汲むとあら不思議、ペットボトルの中には何匹ものクリオネが入っている……という小粋な漁法をどこぞで聞きつけたらしく、真冬のオホーツク海に潜るべくダイビングのライセンスも取る覚悟であるという。ちなみに相蘇さんはカナヅチだ。
電話ではすぐにでも行きたいという前のめりな姿勢だったが、予定は流れに流れて3月の終わり。ようやく「4月10日~12日の日程で行くから準備しておくように」とのお達しがあった。4月中旬では、もう流氷は消えクリオネもいないのでは? と疑問に思ったのだが、実際には5月~6月頃までクリオネの姿は見られ、通常の倍ほどのサイズに成長する個体もいるという。また流氷の去った4月であれば、漁船も問題なく出せるとのこと。
そして彼は、本当にダイビングのライセンスを取得していた。あれって泳げなくても取れるものなのか……。漁船だけでは不安だから、海に潜って自力でクリオネを探すのだそうな。彼は行動力だけは異常に備わった男なのだ。
クリオネ求めていざ北海道へ
4月10日。網走の女満別空港に降り立ったのは、発起人の相蘇さんと、思いつきで行動する相蘇さんの相棒として多大な迷惑をかけられつつなんだかんだと付き合ってあげるデザイナー小出さん、本業SEなのに昆虫食ドキュメンタリーや楳図かずお氏の密着映画を撮っている謎の映画監督伊藤さん、呼べば台湾の豚祭りやら深海魚釣りやらどこでも付き合ってくれる都合のいい女ことアニメーターのカオリン、同じく呼ばれればどこにでもついて行っちゃう都合のいい男ことワタクシ西川。
なぜか相蘇さんは、このような一大イベントには数十人単位が集まって然るべきと思っていたらしく、漁船を2隻チャーターしていた。しかし集まったのは、ご覧の暇人4名だ。相蘇さんは集まりの悪さに釈然としない様子であったが、わざわざ2泊3日かけて北の果てで漁船に乗るだけの旅に、大の大人が4人も集まれば大したものだと思う。
さて、とりあえず網走まで来たからには網走監獄だけはクリアせねばなるまいと皆で観光を済ませ、予定ではこのあと、さっそく相蘇さんが極寒のオホーツク海に潜りクリオネをゲットする運びとなっている。しかし小出さんは、
「僕らが潜るわけじゃないし、クリオネが捕れるかどうかも分からないダイビングをボーッと見てるより、道東を観光したい」
などと大変率直なことを言い出した。超わかる。ごめん……! だって、屈斜路湖とか摩周湖とか見たい……! あと「オホーツクに消ゆ」に登場した和琴温泉にも入りたい。
相蘇さんはダイビングの試験で勝手にフラフラと岩場の隙間を覗き込んでいたら教官にめちゃくちゃ怒られたらしく、こんなに苦労してこの日のためにようやく免許を取得したのに、その晴れ舞台を全員で見守らなくてどうする! と力説されたが、相蘇さんの自業自得な苦労話よりも、目先の楽しい道東観光なのである。
結局、小出さんとカオリンと私が道東観光の魅力に負け、相蘇さんにはカメラマンとして伊藤さんだけが同行することになった。これから彼らはバディをお願いしている地元ダイバーの方とダイビングスポットで合流し、我々は普通に遊びに行く。申し訳ない……! などと殊勝な気持ちでいたのは最初の30分くらいで、あとはただただ楽しく道東を観光すること数時間。楽しすぎて相蘇さんらの存在を完全に忘れ去っていた頃、相蘇さんから電話がかかってきた。
「ついにペットボトルでクリオネを1匹捕まえたよ!」
「おめでとう! さすが相蘇さん! すごいぞ相蘇さん!」
まだやってたのか、とか、こんな時間までずっと潜っててやっと1匹……? といった感想はおくびにも出さず、ダイビングに付き合わなかったことにやや後ろめたさを感じていた我々は、氷点下の水温がいかに厳しいものであるかという相蘇さんの奮闘を聞きながら、精一杯の賛辞を送った。そのままご機嫌で通話を切っていただいたのだが、なぜかまたすぐに電話がかかってきた。
「ペットボトルの蓋を閉め忘れててクリオネがどっか行った」
「……」
電話を切り、我々は速やかに相蘇さんの存在を忘れて観光を楽しむことにした。
3時起き5時出港、12時間ぶっ続けのクリオネ網漁
その夜。極寒の海に潜ってクリオネを1匹だけ捕ってすぐ逃した男と居酒屋で合流し、北海道名物ゴッコ鍋などで体を温めつつ、そう言えば明日本番の予定を聞いてなかったので確認すると、「漁船が羅臼港から5時に出港するから3時に起きて出発しないと間に合わない」という。これからホテルに戻って風呂とか入ってたら寝るのは深夜1時だ。スケジュール管理間違ってない?
結局仮眠程度にしか休めなかったが、船が5時に出るからには北に向かわねばならない。最寄りのセイコーマートでソフトカツゲンを購入してエネルギーチャージし、いざ羅臼港に向かうと、そこには二人の漁師さんが待っていた。そうだった。船を2隻借りているんだった。
向こうも我々の人数の少なさに拍子抜けしたらしいが、この人数で2隻使っても仕方ないので、1隻に全員が乗り込んで出港。ちなみに漁師さんたちは、わざわざクリオネなんか捕ったことがないので、今回のために特別な網を用意してくださっていた。クリオネを逃さないように目の細かな網を漏斗状に編んだ、直径2m、長さ6mの巨大な特注クリオネ専用網だ。
クリオネが捕れそうな場所も分からないので、とりあえず少し沖合に出てまずは網を一投。すぐに数人がかりで網を取り込んで、網を裏返しながら水槽でじゃぶじゃぶと洗う。水は海泥などで少し濁っているので、沈殿するのを待って上澄みをバケツですくい、その中にクリオネがいないか目視で確認していく。基本はずーっとこの地味な作業の繰り返しだ。
しかし何度網を投げても全く捕れない。わずかに生物としての姿を見せるのはプランクトンとオキアミばかり。昨日のダイビングの結果もひどかったし、ホントにクリオネなんかおるんかいな、と半信半疑ながら何投目かの網を洗っていると、「見つけた!」との声が。慌てて駆け寄ると、そこには確かに、あの流氷の天使の姿があった。
初めて間近で見るクリオネは、小分けにしたバケツの中をフヨフヨと漂い、天使の名にふさわしい愛らしさを振りまいている。海水の中できらめくオレンジ色の内蔵が目立ち、捕れていれば意外と見落とさないことも分かった。とりあえずクリオネがいることは確かなので俄然やる気が出てきたが、網を1回投げ入れて捕れるのはせいぜい1匹。地道な作業は終わらない。
ところで、クリオネよりもさらに稀な頻度ではあるが、先程からちょこちょこと黒いイカの子供のような生き物も捕れていることに気が付く。これが耳のようなヒレをピコピコ動かして泳ぐので、クリオネに負けず劣らず大変可愛らしいのだ。
「イカの子供かな?」「かわいいね」などと乙女チックな会話を交わしつつ、これとクリオネが一緒に泳いでいたらさぞかし可憐であろうと、クリオネと同じ瓶に入れておく。しばらく経って瓶の中を覗き込むと、そこには衝撃の光景が広がっていた。何匹ものクリオネがイカの子供にびっしりとまとわりついている。
く、食われとるがな……!! 頭部からバッカルコーンと呼ばれる触手を伸ばし、獰猛な肉食生物としての本性を剥き出しにしたクリオネたちが、イカの子供にガッツリと食らいついている……!
翌日立ち寄った「標津サーモン科学館」の展示で判明したのだが、これはイカの子供ではなく、クリオネのほぼ唯一の餌である貝の仲間、「ミジンウキマイマイ」であったらしい。我々は図らずも、クリオネの群れの中に好物の餌を放り込んでいたのだ。クリオネが観賞用のペットとしてあまり流通しないのは、そもそもクリオネの餌であるこのミジンウキマイマイの方が珍しくて手に入らないためだそうだ。
弱肉強食の厳しさに思いを馳せつつ、その後も網を投げ入れては引き上げ。どうにも効率が上がらないので、途中から網を投げたあとに少し船を動かして網を流してみると、一投で5匹くらいのクリオネが入っていることも珍しくなくなってきた。
しかし所詮、網を洗ってたまにクリオネを見つけて振り分けるだけの、工場勤務のような流れ作業の繰り返しである。流石に飽きたし、寝不足だし、寒いしで、だんだんと船室のストーブにあたる割合が増えてきた。元気いっぱいなのはただ一人相蘇さんだけだ。
それに、クリオネ漁を行っている間ずっと気になっていた存在がある。遠くにやたらとイカツイ軍艦みたいなのが見え隠れしているのだ。あれは何の船だろうか、とボーッと眺めていると、背後から漁師2人の不穏な会話が漏れ聞こえてきた。
「あのロシアの警備艇、ずっとこっちみとるのー」
「この船がヘンな動きして何やっとるか分からんから、見張っとるんじゃろ」
え、待って。密漁船かなんかだと疑われてるの? よく北海道の漁船を銃撃したり拿捕してる、あのロシアの警備艇に?
何やら薄ら寒い緊張感に襲われつつクリオネ漁を続けるも、そろそろ日が傾いてきたため、いい加減戻らねばならない。現時点で捕れたクリオネをざっと目算してみると約80匹。最初はどうなることかと思ったが、こんなペースで捕ってよく80匹も集まった。しらす丼にするには多分というか絶対足りないが。
朝5時に出港して帰港したのは午後5時。こうして、約12時間に渡るクリオネ漁を無事終えたのだった。
実食! クリオネの味は風邪ひいた時の鼻水
2泊目のペンションでは全員死んだように眠り、翌朝。前日の釣果に納得のいかない相蘇さんが、今日もクリオネを探しに行くのだと駄々をこねるのをなだめすかし、とりあえず捕れたてのクリオネを各々試食してみることにする。
1匹ずつ小皿に取り出して、生のままと、一応ポットのお湯を注ぎ込み気持ち湯通ししたものを用意。お湯にくぐらせた程度では、若干白濁するもののクリオネのフォルムは特に変化なく、流氷の天使としての姿を保ったままだ。これをそのままゼリーで固めれば、おしゃれスイーツとして意外と人気が出るのではなかろうか。新たなご当地グルメとして提案したい。
そんな期待感をもたせる姿が食卓に並び、まずは相蘇さんが、生のクリオネを爪楊枝で丁寧にすくってパクっと一口。
「鼻水みたいな味がする!」
満面の笑みであまりに分かりやすい感想を伝えてくる相蘇さん。今から皆で食べようかとしているのに、デリカシーの欠片もない男はこれだから……!
続いて我々もクリオネを口に入れるが、グニャリとした舌触りに、噛みしめれば中身はほぼ海水ながら、わずかに内蔵の苦味と磯臭さが感じられる。ずるるんっとした弾力のある喉越しは、まさに風邪をひいた時の黄色い鼻水の塊。一度鼻水っぽいと思っちゃったら、もう鼻水としか思えない。
なんか……期待してたのと違う……。貝の仲間って言うから、もっとこう、何かしらの旨味があってもいいじゃないか。
ちなみに、無駄に漁船を2隻もチャーターしちゃったものだから、半日分のガイド料やクリオネ網の用意など諸費用を含めて、全部で16万円もかかっている。漁船を増やした分は相蘇さんが責任をもって負担してくれたが。これを食べるために、16万円かけて、12時間も船に乗っていたのか……などと振り返ると、正しい大人としてのお金と時間に使い方に疑問を覚えてしまうので、深く考えるのはやめておきたい。
なお、湯通ししたほうのクリオネは、弾力が少し増した分、鼻水から喉に絡んだ痰に食感がグレードアップしており、さらに残念な食べ物と化していた。
老舗の寿司屋でいただくクリオネの残骸載せ軍艦巻き
試食を終えたクリオネ残り約70匹は、相蘇さんが自宅にクール便で送って預かることになったが、彼はまだクリオネ丼の夢を諦めていなかった。図々しくも、漁師さんに「追加でクリオネが捕れたら送ってほしい」とおかわりを要求していたのだ。その追いクリオネをもって立派なクリオネ丼を完成させるから、座して待てという。
しかし帰京してしばらく。待てど暮らせど、追加のクリオネは届かなかったようだ。クリオネを捕りに行ったのがそもそもシーズン終盤で、数もたいしていなかったのだから、そりゃそうだろうと思う。あまりにしつこい相蘇さんを追い返す方便だったのでは、という気もしている。
あれから3ヶ月。ようやく諦めが付いたらしい相蘇さんから、「クリオネ丼はやめて、軍艦巻きにして食べることにする」との現実的な落とし所が提案された。わざわざクリオネの軍艦巻きを作ってもらうためだけに、行きつけの老舗の寿司屋さんにも協力をお願いしたとのこと。相変わらず無駄に高い行動力を発揮している。
7月中旬、相蘇さん行きつけの寿司屋さんにて集合。クリオネ丼が完成しなかったのは残念だが、なんだかんだで70匹ほどは残っていたのだ。軍艦巻きであれば、それなりのボリューム感もあって満足できるだろう……と思っていたら、相蘇さんの様子がおかしい。おずおずと差し出してきたのは、小皿にへばりつく、オレンジ色に濁った汚い痰みたいな物体であった。……なにこれ。
「クリオネです。すいません」
冷蔵庫で保管されていたクリオネたちだが、与えられる餌もなく、追加のクリオネを待つ間にもどんどん弱ってしまったらしい。3週間ほどでクリオネの状態に限界を感じた相蘇さんは、茹でて冷凍保存することにしたという。しかし、ポットのお湯をかけたくらいでは縮む様子を見せなかったクリオネだが、より確実な長期保存のために塩茹でしたところ、見る見る間に縮んでしまったというのだ。その結果がこの残骸である。
店主にクリオネの残骸を見せると、「一巻分にもならないね」とのこと。しかたなく、わざわざ熟練の寿司職人の腕をお借りして、10円玉サイズの極小軍艦巻きを作成してもらう。その上にオレンジ色のゴミを乗せ、これにて16万円かけたクリオネ軍艦巻きの完成だ。当初の予定だったクリオネ丼とはえらい違いだ。
このサイズでは小分けするわけにもいかない。代表して、相蘇さんがいただくことにする。一口で頬張り、ゆっくりと噛み締めて味わう相蘇さん。16万円分のクリオネ軍艦巻きのお味はいかが?
「ご飯と海苔が美味しい」
どうでもいい答えが返ってきた。要するに、味はよく分からないらしい。すでに鼻水の食感もないと言う。あのグチャグチャの惨状を見れば、さもありなんという感じだ。
今ひとつ締まらない結果に終わってしまったが、これにてクリオネ丼を求めた我々の旅は幕引きとなる。結局クリオネ丼は完成しなかったし、普通の軍艦巻きサイズすら食べられなかったが、少なくともクリオネを自分の手で捕って食べたという達成感は得られた。
ただ、こんなにお金と手間をかけなくても、本来クリオネは、時期や場所によって沿岸部でも大量に見られるものそうだ。漁船でチマチマ捕るのはもうごめんだが、海岸近くに漂うクリオネを手網で手軽にすくえるのであれば、今度こそクリオネ丼を完成させるべく、また捕りに行きたいと思う。