これまで散々、海外の作曲家の下半身騒動をネタにしてきたわけですが、人様の国の男性にとやかく言っている場合ではないのであります。とうとう日本の大作曲家(の下世話な話)をご紹介する時がやってまいりました。「赤とんぼ」や「待ちぼうけ」など牧歌的童謡でお馴染み山田耕筰先生にご登場いただきましょう。
山田耕筰
1866年(0歳)
現東京都文京区に生まれる
1882年(16歳)
最初の作品「MY TRUE HEART」を作曲
1910年(35歳)
ドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に三年間留学
1912年(37歳)
日本初となる交響曲を作曲
1915年(40歳)
最初の結婚、翌年離婚
1916年(41歳)
再婚、のちに離婚
1924年(43歳)
日本交響楽協会を設立。
1956年(60歳)
3回目の結婚
1965年(79歳)
心筋梗塞にて死去
暴力的な父から逃れて音楽家エリートに
「待ちぼうけ〜待ちぼうけ〜」「ゆうや〜けこやけ〜の赤とんぼ〜」ああ、なんとのんびりした歌でしょうか。日本人の誰もが郷愁の思いに浸れる楽曲を作った山田耕筰は、1886年(明治19年)に生まれました。
父親が旧福島藩士で、廃藩置県の後に一家上京して生活を始めました。この父がなかなかクセのある人物で、妻に暴力を振るうし、何をして稼いでいるかもイマイチ分からないし、ヤバめの人も出入りするという落ち着かない生活を強いられていました。しかし、耕筰の母は暴力ヤバめ夫から逃げたついでに、洗礼を受けてキリスト教徒となります。ここが日本の女の底力で、母のこの行動がのちの耕筰の人格形成や外国人文化との交わりに大きな影響を及ぼしたのですから、人生何が吉とでるかわかりません。教会での讃美歌など、西洋の音楽や人々が日常的に身近にあったことは、当時の日本社会としてはずいぶん特殊な環境でした。
そんな生活の中、耕筰の姉の恒(つね)がイギリス人エドワード・ガントレットと結婚します。耕筰の義兄となったエドワードは東京高等商業学校(一橋大の前身)や麻布中学校などで英語を教える傍ら、音楽を愛し、自分でもオルガンや聖歌隊を指導する仕事もしていました。日本でパイプオルガンが普及したのもエドワードの功績です。
そんなこんなで耕筰は環境と出会いに後押しされ、音楽家の道を目指します。16歳の時に最初の作品を発表し、東京音楽学校(後の東京芸術大学)声楽科を卒業。絵に書いたような音楽家エリートの道を歩み始めた彼は、当然、本場欧州への留学を目指します。
耕筰は当時の音楽学校で師となったヴェルクマイスターに相談。そこでヴェルクマイスターは自分がチェロを教えていた三菱財閥の4代目岩崎小弥太に支援を持ちかけるのです。人間わらしべ長者ですね。おかげで耕筰はベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学できました。
この頃は日本政府の方針で国費留学がさまざまな分野で進められていて、森鴎外や夏目漱石、音楽分野では滝廉太郎などがそれにあたります。山田耕筰はその中には入っておらず、あくまでも私費での留学ということで、案外呑気に、楽しく、自分のペースで精力的に学んでいたようです。
結婚、離婚、そしてストーカーへ
ところでこの留学前、耕筰青年には恋人がいて、結婚の約束もしていたようなんですけど、海外留学ということで超遠距離恋愛が始まります。現代でさえ、海外との時差あり遠距離恋愛は大変なのに、この時代はさらに厳しいものだったと想像がつきます。案の定、日本の恋人は別の人と結婚しちゃうし、耕筰はベルリンの下宿先の娘さんと結婚の約束をしちゃったりしています。うん。想像できる。3年のベルリン留学で耕筰はしっかり西洋の音楽の理論と、その頃に活躍していたR.シュトラウスの新作に出会ったり、そしてちゃっかり恋愛したりと大忙しだったわけです。そうこうしているうちに帰国することになり、今度も恋人を置いてきちゃったので、また超遠距離恋愛が始まってしまいます。
前の経験を活かして今度はうまくいくのかと思いきや。耕筰は帰国してさっさと次の年に日本人の女性と結婚します。ここでやっと落ち着いたのね、とは行かないのが、我らが作曲家界隈であります。ご期待とおり、耕筰は結婚後すぐに不倫騒動を起こし、激怒した妻から離婚を突きつけられて、なんと結婚してたった4ヶ月で離婚することになりました。しかし耕筰はこれに納得できず、別れた妻を連日ストーカーのごとく追いかけ回したというのですから、ちょっと意味がわかりません。元妻もこれが怖すぎて、知人や親戚の家を転々として逃げ回ります。追いかける耕筰、逃げる元妻。「待ちぼうけ」するくらい待っとけ!と苦言を呈したくなりますが、あの歌詞を作ったのは耕筰じゃなく北原白秋でしたわ、ごめん。
いっぽうその騒動を知ったパトロン岩崎小弥太は大激怒。それもそのはず、岩崎はベルリン留学費を出しただけでなく、耕筰が帰国して音楽活動を展開できるよう東京フィルハーモニー会管弦楽部なるオケまで作ってその首席指揮者にまでしていたんですから。しっかり学んできて腰を据えて日本の音楽業界に貢献してくれることを期待してたのに、なんなら結婚の仲人まで引き受けていたのに、なんじゃこの騒ぎは! 音楽に専念せんかい! と怒っても無理ありません。岩崎はこのオーケストラを即刻閉鎖し、耕筰は莫大な借金だけを抱えていまいます。
お金と下半身の統制が取れない男
活動場所も信用も失った耕筰は、失意の中、その騒動の発端となった不倫相手とさっさと再婚します。だれか1人でも味方がいてほしかったんでしょうね。その気持ちは分からないでも……と思いきや。今度はあろうことか親しい友人夫婦の奥さんに手を出してしまいます。今度はダブル不倫です。結果、双方離婚することになってしまって、せっかくの仕切り直しもパーです。しかも耕筰はこれだけでなく、この後もあちこちで恋愛沙汰、愛憎劇を繰り返していて、弟子にまで「飲めば三分の二以上がエロネタだった」と言われる始末。期待を裏切らない奔放ぶりですね。
さらにご期待のとおり、偉大な作曲家にまま見られる金銭感覚のルーズさもちゃんとあります。苦労して作った新しいオーケストラ日本交響楽協会(その後NHK交響楽団となる)でも会計がずさんで、収益の半分は自分、残りを楽団に渡したなど耕筰のやり口に不満も噴出し、結果このオケは解散してしまいます。まぁそもそも耕筰には人望だけでなくあまりカリスマ性などもなかったと推測されていて、とにかくいろいろダメな感じで作曲だけは続けたわけです。うん。お金と下半身の統制が取れなくても、調性は取れるんですね。知らんけど。
とはいえ、日本が西洋音楽を取り入れようとした黎明期に、クラシック音楽的なものだけでなく日本語に目を向けて曲と融合させるなど、旺盛な創作力をもった偉大な作曲家であったことは確かです。それから、あの乳酸菌飲料カルピスの開発と商品化に際しては、カルピスの製造開発者が耕筰を訪ね、その商品名を相談していたというのです。現在も暑い夏の日に「カルピス飲みたい〜!」と私たちが言えるのだって、耕筰のおかげ。いろんな意味で感慨深いものがありますね。
まぁそんなこんなで、今回もまた今に残る名曲と文化の歴史には奔放な男と、その陰で力強く生きた女たちが日本にもちゃんといたんですよというところで、さらなる次の偉大な作曲家の下世話ネタにつなげたいところであります。カルピス飲みたいですか、そうですか。