全国さまざまなジャンルのオタクの皆さま、どうもお待たせしました。クラシック音楽界オタクの極みドボルジャークをついにご紹介する時がやってまいりました。気が乗らない仕事を引き受けてしまったけど、オタク気質を遺憾無く発揮したら成功したうえに、それで儲けて借金返済もできたオタク界の成功者ドボルジャークでございます。
アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク
1841年(0歳)
プラハ近郊北ボヘミアで生まれる
1857年(16歳)
プラハのオルガン学校へ入学
1870年(29歳)
初オペラである『アルフレート』作曲
1892年(51歳)
アメリカで音楽活動を開始
1893年(52歳)
交響曲第9番「新世界より」作曲
1895年(54歳)
プラハへ帰国
1904年(63歳)
脳出血により死去
アニメ『ワンピース』や「家路」というタイトルで日本語の歌にもなっている、ドボルジャークの交響曲第9番「ユーモレスク」は、その曲を聞けば誰もが「ああ、これか!」と膝を打ちまくれる大変有名な楽曲です。
この名曲を作ったドボルジャークは、オーストリア帝国時代の北ボヘミア地方にある小さな商店の9人兄弟の長男として生まれます。特に裕福な家庭ではなかったのですが、音楽を愛する家族に囲まれて田舎ですくすくと育ちます。地元の小学校でヴァイオリンを教えてもらうようになったり、教会の聖歌隊に入ったりして、ドボルジャーク少年は音楽が好きになり、また周りもそのセンスと才能に気がついてきます。
ただ、当初から音楽家になろうとしていたわけではなく、実家の家業である肉屋を継ぐため修行もしていました。そんな中やはり音楽への興味は失われず、本格的に音楽を学ぶようになります。しかしその後、実家の経済状況が悪くなって仕送りができない状況に追い込まれてしまいます。そろそろ家業を、と音楽を諦めようとしたドボルジャークでしたが、伯父からの資金援助があってなんとか音楽の道を探り続けます。
人生に影響を与えた三人の音楽家
学校を卒業しプロのヴィオラ奏者となったドボルジャークに、のちの音楽家人生に大きな影響を与える三人の音楽家との出会いがあります。
ひとりは、ベドルジハ・スメタナです。『我が祖国』という6つの交響詩からなる連作交響詩を制作したチェコの代表的な作曲家。その第2曲『モルダウ』は日本語の歌詞も付けられている楽曲です。スメタナに出会ったドボルジャークは、自分のアイデンティティを示す国民性、国民的な音楽を目指すようになります。
二人目はブラームス。30歳を過ぎてもまだまだ作曲家として下積みの時代にいたドボルジャークは、オーストリア帝国政府の奨学金を獲るため審査を受けます。その際に審査会の一員としてブラームスが参加していて、ドボルジャークの才能を見出し、出版社を紹介し作曲を促します。
三人目のリストは、ドボルジャークに手紙を書いて励ましたり、ドボルジャーク作品をわざわざ弾いて披露したりと、遅咲きの作曲家を周囲の攻撃や妬みから守りました。いや~音楽の歴史を振り返ると、時々こうした天才が天才を褒め、ちゃんと引っ張り上げるという好循環があることに気が付きます。かくいうブラームスだって若い時にシューマンに認めてもらったからこそ今があるわけで。誰とは言いませんけども若い才能を見つけると足を引っ張ったり、芽を摘んだりする輩もいる音楽界で、こうした心温まる逸話を読むのは人生に光が見えますね。
25倍の給料でニューヨークへ
さて、そんなこんなでどんどん音楽家として成長していくなんかいい感じのサクセスストーリーだけになれないのが、我らがクラシック作曲家界隈です。ドボルジャークは金銭感覚がイマイチというか、作曲する時間がとりたくて楽団の奏者をやめてしまったり、レッスンで稼ぐと言いながら、その生徒と結婚してしまったりと計画性にちょっと問題があった様子。ついには楽譜のための紙も買えなくなるという、何のために安定収入を捨てたのかもわからなくなる始末。せっかく高額の奨学金を得たのに、その使い道も適当と、どんどん友人知人からの借金だけが増えていくような生活をしていました。借りられるだけすごいと言えなくもないけど。
そんな中、ドボルジャークに高額の報酬を期待できるオファーが来ます。1892年 、ドボルジャーク51歳の時にニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者であり理事長のジャネット・サーバーから音楽院院長にならないかというものです。当時プラハ音楽院で教えていたドボルジャークの給料の、なんと、25倍の額を提示されたんですから、そりゃ最初は渋っていた、いくらプラハ大好きのジモティでも行きますよね、ニューヨーク。金額に目が眩んで、あまり気が乗らないまま行ったドボルジャークではありますが、そこでの彼を救ったのが、鉄道オタク趣味だったわけです。
鉄道の音を当てはめて名曲が誕生
ドボルジャークがまだ4歳ごろの1845年、ウィーンからプラハ、ドレスデンを結ぶ鉄道が開通しました。この列車はドボルジャークの地元を通っていたようで、このころから鉄道の走る音を耳にしたことで、鉄オタの下地が作られていたのではと言われています。音楽学校に通うためプラハに移ってからは、学校そばではなく、「列車の音が聞こえるところ限定」で下宿を探したというのですから結構気合が入っています。暇さえあれば駅に行き、機関車の型番、スペック、時刻などを詳細にメモし、なんなら駅員や運転士の名前まで記録していていたようです。ちょっと想像すると怖いですね。
とはいえ、やっぱりそこは音楽家。耳は相当優れています。ある時、機関車の走行音とリズムに違和感を覚えたドボルジャークは駅員に「機関車の走る音がいつもと少し違う。どこかおかしいんだよ。今すぐ止めて調べるべきだ、音楽家の耳を信用しろ!」と駅員に迫ったとのこと。この時本当に機械に不具合があったというのですから、鉄オタも一流音楽家だと役に立ちますね。駅員をストーカー的に名前まで聞いておいた甲斐がありましたね。うんうん。
そんなドボルジャークがお金目当てにアメリカに行った時には、当然アメリカの機関車に夢中になるわけです。「いや~アメリカの鉄道の音は全然地元のチェコの列車と違うな~レールの幅も違うからな~」とかなんとか言いながら、暇さえあれば鉄道を見にいくドボルジャーク。そしてそのまま、大好きな鉄道の音を当てはめて作ったのが、交響曲第9番「新世界より」です。
この第4楽章の冒頭は正に、蒸気機関車が発車するときのイメージ音そのものです。シリンダーに蒸気を送り込んで回転させ、初めは重々しくゆっくりと、次第に加速していく車輪。楽曲中1度だけ鳴らされるシンバルは、汽車を連結する音なのだとか。新世界というのは当時の欧州から見たアメリカであり、その新しさの中で鉄道という自分の趣味を合体させたこの名曲は、今でも世界中で愛されて演奏され続けています。
そして鉄オタ垂涎の極み、“自分の名前のつく列車”まで持てるようになったのですから、今頃ドボルジャークは故郷を走る列車「アントニン・ドヴォルザーク号」を天国から見下ろしながらほくそ笑んでいることでしょうね。鉄オタのみなさん、今後はどうぞ“音鉄”となって録音もしてくださいね。あ、私は大砲の音は録りましたけど、鉄道は録ってませんでした。どうもすみませんでした。