創立から100年以上経っても女性たちの心を掴んで離さない「シャネル」。旧時代の全てを破壊したとも言われるブランド創設者ココ・シャネルが、実は、クラシック音楽の世界で新時代をこじ開けた作曲家のパトロンでもあったというのは知らない人も多いだろう。のちに20世紀最大の作曲家となるロシア出身のイゴール・ストラビンスキーのことだ。自らが築いた資産で男性作曲家に家と生活費を提供し、その作品上演に多額の寄付をしたシャネルと、それを妻子と共に受け取ったストラビンスキー。自力で稼いだお金で男の才能を買った女の気持ちはどのようなものだったのだろうか。
イーゴリ・ストラヴィンスキー
1882年(0歳)
ロシアのサンクトペテルブルク郊外に生まれる
1902年(20歳)
作曲家リムスキー=コルサコフから個人レッスンを受けるようになる
1906年(24歳)
幼なじみのエカテリーナと結婚
1910年(28歳)
パリ・オペラ座でバレエ「火の鳥」初演成功
1913年(31歳)
パリ・シャンゼリゼ劇場柿落とし公演のバレエ「春の祭典」初演大騒動
1920年(37歳)
シャネルからパリ郊外の家を提供される
1959年(77歳)
来日公演を東京で行う
1971年(88歳)
ニューヨークで死去
一流の才能が集うバレエ団で楽曲を担当
1882年、当時のロシア・マリインスキー劇場の売れっ子オペラ歌手であった父の元、イゴール・ストラビンスキーは生まれた。音楽に囲まれた育ちではあったが、当初は音楽ではなく法曹の道を考えていた。しかし音楽への興味は失わず、ロシアの偉大な作曲家リムスキー=コルサコフと出会って作曲を学びはじめる。
自作品の演奏会などを行ううちに、当時きってのバレエプロデューサーであるセルゲイ・ディアギレフに才能を見出される。ディアギレフは1909年にバレエ・リュス(ロシアバレエ団)をパリで旗揚げすることとなる。20年ほどパリで人気を得たこのバレエ団には、ダンサーのニジンスキー、作曲家のドビュッシー、ラヴェルといった音楽やバレエ関係だけでなく、画家のマリー・ローランサン、小説家のジャン・コクトーや画家のパブロ・ピカソなど、フランスの文化を牽引する超一流の才能たちが集う場所でもあった。
1910年、ディアギレフは旗揚げ間もないバレエ・リュスの新作制作をストラビンスキーに依頼する。この時に作られたバレエのための作品が「火の鳥」である。不安定なメロディと若干奇妙な調性、斬新で複雑なリズムの間に、時折混じるうっとりするようなロマンティックな部分を併せ持つこの音楽は、当時のパリでその目新しさを歓迎され、初演が大成功をおさめる。
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これに気を良くした二人は、翌年「ペトルーシカ」の初演も大成功。いよいよもって、このロシアバレエと新進気鋭の作曲家の新作が、文化芸術の革新を大いに歓迎するパリの社交界でも受け入れられ、高い評価を得るにいたった。
奇抜な作品で大暴動に
大きな図に乗っていたディアギレフとストラビンスキーは、大概の脇の甘い文化人がそうであるように、不安が現実になる。1913年、パリ・シャンゼリゼ劇場柿落とし公演での、後世まで語り継がれるストラビンスキー新作「春の祭典」初演時の観客による大暴動である。
「春の祭典」は、ストラビンスキーの発想による物語である。異教の神を信じる村人たちが、春の訪れを願って処女を生贄に捧げ踊るというショッキングな話である。古代のロシア民族衣装をイメージしたエキゾチックで小汚いデザインをまとったダンサーたちは、道化のような化粧も施された。それまでの優雅で絢爛豪華なバレエとは全く別物がそこに並んでいたわけだ。振り付けも当時まだ新人だったニジンスキーによるもので、この意味不明なリズムの楽曲に合わせるために、意味不明なステップによる民俗的な祈りの集団を作った。腰を曲げて奇妙に頭をもたげて地団駄を踏むようなダンスが繰り広げられる。言葉で説明しているだけでも大変奇抜な代物である。
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幕が上がり踊りが始まってすぐ、会場の観客からブーイングが発せられた。大作曲家サン=サーンスは「聞くに耐えない」と言ってさっさと帰ってしまう。観客の罵声はどんどん大きくなり、一方で「面白いから最後まで見るぞ」という観客とが殴り合いになった。その騒動がうるさすぎて、ダンサーたちはオーケストラの音が聞こえず、ますます上手く踊れない。とうとう振り付けのニジンスキーが舞台のダンサーに向かって、ダンスのカウントを取る始末。殴り合う観客に怪我人も出て、最後は劇場オーナーが「最後までご覧ください!」と観客に怒鳴って回ったという。想像するだけでも面白いし、これを現地で見ていたらどれだけ話のネタになっただろうと思う。全くもって残念である。見たかった。
「破壊」で通じ合ったシャネルとストラビンスキー
それまでのクラシック音楽は、素晴らしく整った美しさで構築され、ロマン派に代表される音楽やバレエは見ているものの心を癒す作品が多い。そのような時代を経てここに現れたストラビンスキーの音楽は、前時代の全てを否定し破壊するような斬新さがあった。世間が、社会が、歴史が、伝統が、こんなものは音楽ではない、バレエではないと憤慨するほどのパワーを持った作品である。普通ではないのだ。そこにココ・シャネルが惹かれたのではないか。
ココ・シャネル。貴族社会で常識とされていたファッションをすべて破壊。シンプル&モードを確立した
ガブリエル・シャネルは1883年にフランスの地方で生まれた。幼い時に母を亡くし、生活基盤の整わない父に見放される形で修道院に預けられた。そこで針子仕事を習い、生計を立てていた。酒場で歌い踊る仕事をしていたころもあり、この頃に「ココ」と呼ばれ始めたようだ。
20代に地方からパリに進出し、新しいデザインの帽子屋を繁盛させ、ドレスなども制作するようになる。それまでの貴族社会で常識とされていた裾広がりのボリュームある華美なドレスと羽飾り満載のゴージャスな帽子などの「女を飾り立てる」装いを真っ向から否定し、シンプルでモードなデザインを確立した。喪服としてしか認識されていなかった黒い布地でドレスを作るようにもなる。またそれまでのドレスに必須であったウエストをぎゅーぎゅーに絞って締め上げる窮屈な細く見せるコルセットを取り払い、女性の体と動きを自由にした。
シャネルは「シャネル前の全てを壊した」と言われるほど、ファッションの世界で新しい方向を見つけた。交際していた裕福な恋人たちからの協力や支援が最初にあったとはいえ、シャネル自身の閃きと働き、そして努力がなければ、時代を変えることなどできなかったであろう。自分自身のアイディアと行動力により店を拡大し、事業を世界中に展開した。帽子からドレス、バッグ、香水。その全てに新しい時代の息吹があった。そしてシャネルは、その時々に興味を喚起される恋人を次々に変えた。英国紳士が恋人の時期には、イギリスの布を輸入した。フランスの社交界だけでなく、ドイツ人やロシア人が恋人の時もあった。
その一人がストラビンスキーである。その斬新さにシャネルは興味を持ったに違いない。前の時代を否定して破壊するには、相当な才能とエネルギーが必要なことをシャネルは知っていた。まだ資金的な余裕のなかったストラビンスキーに支援の手を差し伸べたのには、クリエイターとしての共感があったのではないかと思う。
パリ郊外へ引っ越した頃(1921年/38歳)のストラビンスキー。
シャネルの所有するパリ郊外の邸宅に、ストラビンスキーが妻子を伴って越してきた際、二人に肉体関係が本当にあったかどうかは定かではない。衣食住の全てを家族分出してでも、シャネルはストラビンスキーの生み出す作品をどうしても見てみたかったのではないかと思う。この頃、ストラビンスキーの公演のために、巨額の寄付もしてもいる。才能ある男性が自分の庇護の元で暮らしているのも、誇らしく楽しかったに違いない。自分の別荘にいるくらいだから、時間と隙があったら寝てみてもいいし、それくらいはあったような気がしないでもない。性的な関係があったとしても、それほどシャネルがストラビンスキーに没頭したとは思えない。才能に興味があり、ちょっと支援している男性と寝たからといって、シャネルほどの女にとってみたら全然大したことでもない。妻からしてみたら全く面白くないシチュエーションであるが、夫が愛人からお金をもらっている立場で文句のいえた義理でない。妻からすれば辛く、愛人からしたら楽しく、そして夫は馬鹿かもしれない。
2年ほどして、ストラビンスキー一家はシャネルの元を出た。おそらくはシャネル自身がストラビンスキーに飽きたのだと思う。作曲という異分野のクリエイトを垣間見て最初は面白かったけど、たぶんそれ以上でもなかった。生き方も装いもシャネルからしたらストラビンスキーはダサかったのだ。他の恋人たちほど得られるものを見出せなかったのだと思う。才能と経済力のある女はいつも自分で決断するものだ。
晩年のストラビンスキー
ストラビンスキーはその後、バレエや交響曲も書き、アメリカに渡って作曲家として大きくなった。一曲の中で拍子を変化させる手法、リズムに乗り切れない奇妙さを打ち立て、「無調」と呼ばれる奇抜な音楽を打ち出した。
ストラビンスキーは、自立し経済力を持った最高に手強い女に、一時期庇護され、守られ、もしかしたら少し遊ばれもしたかもしれない。芸術を生み出す男とそれを支援するそれ以上のクリエイター女の一時の遊びは、刺激的だったに違いない。
全く落ち着かず奇妙で卓越したストラビンスキーのバレエを、リトルブラックドレスを纏い、マトラッセを持って鑑賞に行く。そんなことを訳知り顔でやってみたいものだ。「ココ・シャネル」の香りをお供にして。