音楽史上最も有名で多大な影響を遺した作曲家、ベートーベン。ライオンヘアーで赤いスカーフの気難しい肖像画は音楽室に飾られ、第九(交響曲第9番)は日本の年末に欠かせない風物詩となっている。そんな偉大なるベートーベンのプライベートといえば難聴に悩まされただけでなく、愛する女性に尽く振られ続けた不遇な生涯だった。
1770年 (0歳)
ドイツで生まれる
1787年 (16歳)
ウィーンへ行きモーツァルトを訪問
1792年 (22歳)
ハイドンに弟子入りしウィーンに移り住む
1801年 (30歳)
「月光ソナタ」作曲
1802年 (32歳)
難聴を悔み、オーストリア・ハイリゲンシュタットで遺書を書く
1809年 (39歳)
「交響曲第5番 運命」を出版
1810年 (40歳)
「エリーゼのために」作曲
1824年 (54歳)
「交響曲第9番」作曲
1827年 (56歳)
肝硬変のため死去。葬儀にはウィーン市民2万人が参列した
音楽史上最も有名で多大な影響を遺した作曲家
1770年、ドイツのボンでルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベンは生まれた。歌手でアルコール中毒の父親のせいで生活は困窮し、当の父親から才能と収入をあてにされるという、人生のスタートからして不穏な空気をまとっていた。しかし音楽的才能は進化し続ける。16歳のベートーベンは当時きっての大作曲家であるモーツァルトに会いたくて、オーストリアのウィーンまで行ったりもする。情熱と積極性。これがベートーベンのひとつの特徴だ。
その後偉大なる作曲家ハイドンにもその才能を見出され、1792年当時文化の中心であったウィーンに移り住み、作曲家への道を開いていく。ただ性格に難ありと評判で、恩人ハイドンから「ハイドンの弟子って楽譜に書いていいよ」と言われて「おまえからは何も教わってないわ」と断固拒否したという逸話はなかなかである。人でなし加減が振り切っていて、いっそ清々しい。
そんなベートーベン、このウィーンでは第九や第5番「運命」をはじめとしたオーケストラ楽曲やピアノソナタなど数多くの素晴らしい作品を遺した。気難しく変わり者で気分屋の性格が災いし揉め事も多発。ウィーンでの引っ越しは70回以上にも及ぶ。半年に一回は引っ越ししている計算になるが、それはもはや住んだと言えるのかという状況である。
家主には部屋が汚すぎるから出て行けと言われ、友人や近隣を巻き込んでの騒動に発展したりもする。当時ピアノや大量の楽譜と一緒の引っ越しは大変なことだった。そんな落ち着かない中で作曲を続けるが、20代後半ごろにはすでに難聴の気配があり、40歳ごろには全く聞こえなくなっていたという。大量の飲酒のせいもあり身体中を病が進行していった。交響曲10番を完成できないまま、1827年56歳で亡くなった。
生徒に恋して思わず贈った名曲「月光ソナタ」
ベートーベンは作曲家としての偉業とともに、数々の恋愛遍歴も有名である。さすがは作曲家。好きな人ができると相手に曲を贈り、熱烈にアプローチをしていたようだ。しかしいつも振られてしまう。彼は生涯独身だった。この失恋の数々は身分の違いという社会的側面で語られることが多いが、そこを女性視点でも考えてみよう。
あるときには一度振られた相手が結婚したのち、未亡人になった後にまた懲りずに再度アプローチする。「尊敬の念しかございません」と丁寧な返事をいただいたにも関わらず諦めない。断られていることを理解できますかと言いたいくらい空気読めなさを発揮した。尊敬の念しかございません、って本当に素敵! ではなくて、「男としては見られません」という辛辣な内容を穏便に返答しているだけで女性側のわりと丁寧な配慮なのだが、そこは分からなかったのかもしれない。
ベートーベンの恋愛妄想的突進自爆はいつも同じパターン。熱烈な恋に落ちて、手紙や曲を贈りまくる。さらには自分の友人に宛てて「もうめちゃくちゃ可愛い子がいるんだがww(意訳です)」と手紙を送ったりする。もう素晴らしく有頂天な感じだ。情熱的で猪突猛進的な性格が恋愛に強烈に現れる。そういう強引さが時として魅力だったとも思えるが、結局はフラれてしまう。
30を過ぎてもなおその勢いは衰えず、次の恋の相手もまた自分にピアノを習いにきた美しい14歳の少女ジュリエッタだった。この時も「この娘と結婚したら幸せになれそうwwwなんなら病気も大丈夫かもww(意訳です)」のような手紙をまた友達に送っている。名探偵コナンの神回で有名な「月光ソナタ」はこの時の彼女に贈ったものだ。美しくロマンチックな楽曲だが、好きな人に送るにはちょっと暗すぎない? と思わなくもない。伯爵令嬢という身分の差があったにせよ、ご想像のとおりこの恋(もういっそ妄想かもしれないが)も、結婚というゴールにたどり着くことはなかった。
【月光ソナタ】
「エリーゼのために」は実は「テレーゼのために」だった
いよいよ40も過ぎたころ、性懲りもなくまた同じことになる。友達の紹介で知り合った(どこかの結婚式の紹介のようだが)テレーゼ28歳に心奪われる。この時作られたのが「エリーゼのために」というピアノ曲である。いや待て。テレーゼさんが好きで贈った曲がなぜエリーゼ宛てなのか。
【エリーゼのために】
実はこの曲、楽譜にドイツ語でタイトルが書かれていたのであるがその字があまりに汚な過ぎて読めなかったのだ。後世になんかよくわからないけどエリーゼって書いてあるっぽい、という雰囲気でこのタイトルで有名になってしまった。心奪われた人に贈った楽曲の楽譜に書かれた文字が、自分の名前のはずだけど汚くて読めないってどういうことなの、と私が贈られたほうなら思う。非常に美しいピアノの曲だが、聞くと、ああやっぱりな、フラれるはずだわ、字が汚いだけじゃなく、と現代でも女性たちの間でネタにされる雰囲気なのだ。
まるでお花畑を歩いているかのような滑らかで美しいメロディから始まる。ロマンチックこの上ない。草原にも爽やかな風が吹いているような名曲だ。中盤には少し激しい雰囲気。テンポも速くなり盛り上がっていく。そしてまた終盤に最初のフレーズに戻る。美しいと思う。流れるような右手のメロディに左手の伴奏が追いかけていくように攻めていく。
ベートーベン天才だ。だがしかし、女性であることだけを心のセンターフォワードにおくと、これを贈られてもやっぱり心底響かなかっただんだと思う。私を見てるんじゃなくて、私を好きな自分自身に酔ってるなと。お花畑を歩いているのは「自分の理想たる女性像」。私じゃない。何度も繰り返される同じフレーズが私に向いているようには感じない。キミが好きだよ、こんなに好きだよ、美しいキミを思う僕の心はこんなに激しいんだよ、としつこいくらいに繰り返す。いや、こっち見ろ、である。相手の女性の顔が見えないのだ。表現されているのは自分の思いだけ。女性の側からしたら、それが一番受け入れ難い。そんな相手とは困難を乗り越えて共に生きようと思えない。残念ながらそういうことになってしまうのだろう。いつも。
フラれ続けてくれてありがとう、ベートーベン
晩年のベートーベンのラブレターとして最も有名な「不滅の恋人よ」と呼びかけて書かれたものも実は、相手に渡っていない。ベートーベンの死後に机の中から出てきた、つまり独白ラブレターなのだ。ここまでくるとベートーベンのモテなさがかわいそうな気さえしてくる。
ベートーベンは作曲家として輝かしい地位を築いた。生まれて250年が経った今も楽聖として崇められている。彼がいなかったら今のクラシック音楽はなかっただろう。病気といった不遇な運命にあっても遺した功績は素晴らしい。作曲家として成功し、ウィーン音楽文化で中心的な存在であるベートーベンは、デキるオトコとして大変理想的だ。社会的な成功は男性を魅力的に見せる。
だがしかし、一歩プライベートに近づいたら、その奇人ぶり、気難しい気性についていけないと思ったのも理解できる。ベートーベンに愛し愛され、心の支えになってくれる女性がもしそばにいたら、生まれた楽曲の数々もまた違っていたかもしれない、と思わなくもない。今残っている楽曲を聴いて、そう、いややっぱり思わないな、このままがむしろいい。この情熱と経験と、そしてままならない人生が偉大な作品へと繋がっている。フラれ続けてくれてありがとうベートーベン。いや感謝すべきは彼を受け入れなかった数々の女性たちかも。